ラフカディオ・ハーンとアメリカ

ニューオーリンズ時代のラフカディオ・ハーン
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ギリシャ系アイルランド人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲/1850-1904)は、ギリシャに生まれ、アイルランド、イギリス、フランス、アメリカ、カリブ海のマルティニークを経て、1890年に来日し、明治日本の基層文化を五感を研ぎ澄ませて観察し、世界へ発信した作家として知られています。

ちょうど150年前の1869年、当時19歳だったハーンはアイルランド移民として単身ニューヨークに到着しました。幼少からの度重なる苦難を乗り越え、渡米後はジャーナリスト、民俗学者としてシンシナティとニューオーリンズで約20年間の取材生活を続け、トップクラスのジャーナリストへと飛躍し、また文筆家としての地位を確立していきました。その間、4つの新聞社で働き、民俗学的関心のもとに当時未評価だった非キリスト教的文化の探求に専心し、またフランス文学の翻訳や世界の超自然的物語の再話、クレオール文化の探究、ルイジアナや西インド諸島マルティニーク島での体験を題材とした紀行文や小説などを手掛けました。このことが、知識の上でも方法論の点でも、日本理解の重要な素地となったことは言うまでもありません。

そのハーンが日本へ関心を持った大きなきっかけは1884〜85年にかけてニューオーリンズで開催された万博でした。記者として取材に訪れ日本の展示品を見たハーンはこの国に強くひかれていきます。その後ニューヨークで英訳『古事記』(1882)を読み、一層日本、特に出雲地方への関心を高めるようになっていきました。

本事業のテーマであるハーンの「多様性を尊重するオープン・マインド」が培われたのは、アメリカの混淆文化の土壌での事であり、やがてハーンのまなざしは、日本の基層文化に注がれ多くの著作を生み出すことになったのです。

『怪談』に代表されるラフカディオ・ハーンが残した多くの著作は、日本の庶民の暮らしやその精神性が敬意を持って綴られ、今日でも世界中の多くの読者をひきつけてやみません。


ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

パトリック・ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人の父チャールズとギリシャ人の母ローザとの間に1850年にギリシャ・レフカダに生まる。アイルランド、イギリス、フランスで教育を受け、1869年に渡米。シンシナティ・ニューオーリンズ・カリブ海のマルティニーク島でジャーナリストとして活躍し、民俗学者的視点で地域の基層文化を新聞記事や著書で世界へ発信する。ニューオーリンズ万博や日本神話に関する著書で日本文化への関心を抱き、39歳で来日。松江、熊本で英語教師、神戸でジャーナリスト、東京で大学教員をしつつ、オープン・マインドなまざざしで日本人の精神文化を探究し、『知られぬ日本の面影』『心』『怪談』『日本―ひとつの解明』などの十数冊の著作で、世界へ伝えた。1896年には小泉セツと入夫婚姻、日本に帰化し「小泉八雲」と改名する。4人の子どもに恵まれるが、1904年に心臓発作で死去する。